
「下請代金が期日通りに入金されれば、資金繰りの不安なく事業に集中できるのに」あるいは「コンプライアンス違反のリスクをなくし、安心して取引を拡大したい」。多くの事業者が抱えるこの切実な悩みを解決する鍵が、下請法の「60日ルール」です。
このルールは、単なる法律上の制約ではありません。むしろ、健全なキャッシュフローを生み出し、取引先との信頼関係を築くための強力なツールとなり得ます。
しかし、下請法は複雑で、その適用範囲や支払期日の正しい数え方(起算日)を誤解したまま、意図せず違反してしまうケースが後を絶ちません。
この記事では、法律の基本から具体的な計算方法、違反した場合の厳しいペナルティ、そして近年大きく変わった手形払いの新常識まで、あらゆる論点を網羅的に解説します。
紹介する明確なステップと実用的なチェックリストを活用すれば、自社の取引が下請法の対象となるかを正確に判断し、潜在的なリスクを洗い出し、法令を遵守した支払いプロセスを確実に社内に構築できます。法律を正しく理解し、盤石な事業基盤を築きましょう。
目次
下請法と「60日ルール」の概要
下請法(正式名称:下請代金支払遅延等防止法)は、取引上優位な立場にある親事業者が、その地位を濫用して下請事業者に不利益を与えることを防ぎ、公正な取引関係を促進することを目的とした法律です。この法律の中核をなすのが、通称「60日ルール」と呼ばれる支払期日に関する規定です。
このルールは、下請法第2条の2に定められており、親事業者は下請事業者から物品やサービスを受け取った日(給付を受領した日)から60日以内に支払期日を設定しなければならない、という義務を課しています。これは、親事業者が不当に支払いを遅らせることで、下請事業者の資金繰りを圧迫し、経営を不安定にさせる事態を防ぐための重要な決まりです。
この法律の巧みな点は、単に支払いの遅延を罰するだけでなく、取引の初期段階で公正な条件を確定させることを求めている点にあります。具体的には、親事業者には「支払期日を定める義務」そのものが課せられています。
もし親事業者が支払期日を明確に定めなかった場合、法律上は「給付を受領した日」が支払期日とみなされ、その翌日には支払遅延が発生している、という極めて厳しい解釈がなされます。
つまりこのルールは、支払いの遅れという結果を取り締まるだけでなく、支払いに関する曖昧さをなくし、取引の透明性を確保するという、より積極的で予防的な役割を果たしているのです。
下請法の適用範囲
「60日ルール」は、すべての企業間取引に適用されるわけではありません。下請法が適用されるかどうかは、「取引の内容」と、取引当事者双方の「資本金の額」という2つの基準によって決まります。
取引内容は、大きく分けて以下の4種類です。
- 製造委託
物品の製造や加工を委託すること。 - 修理委託
物品の修理を委託すること。 - 情報成果物作成委託
プログラム、デザイン、設計図などの作成を委託すること。 - 役務提供委託
運送、情報処理、コンサルティングなどのサービス提供を委託すること。
これらの取引において、親事業者と下請事業者の資本金が特定の組み合わせに該当する場合に、下請法が適用されます。なお、個人事業主は資本金1,000万円以下の法人として扱われます。
製造委託・修理委託等の場合
製造委託、修理委託、情報成果物作成委託のうちプログラム作成、役務提供委託のうち運送・倉庫保管などが該当します。
親事業者の資本金が3億円を超える場合、下請事業者の資本金が3億円以下(個人事業主を含む)であれば適用対象です。また、親事業者の資本金が1千万円超3億円以下の場合、下請事業者の資本金が1千万円以下(個人事業主を含む)であれば適用されます。
情報成果物作成委託・役務提供委託の場合
上記以外の情報成果物作成委託(デザイン作成など)や役務提供委託(コンサルティングなど)が該当します。
親事業者の資本金が5千万円を超える場合、下請事業者の資本金が5千万円以下(個人事業主を含む)であれば適用対象です。また、親事業者の資本金が1千万円超5千万円以下の場合、下請事業者の資本金が1千万円以下(個人事業主を含む)であれば適用されます。
この資本金基準は非常に厳格で、わずか1円の違いで法の適用関係が変わることもあります。
将来導入される「従業員数基準」
注意すべきは今後の法改正です。現在の資本金基準は、資本金が小さくても実質的な影響力が大きい企業(例えば、ITサービス業など)が規制の対象外となるという課題を抱えています。
この問題を解決するため、2026年1月施行予定の改正法(中小受託取引適正化法)では、資本金基準に加えて「従業員数基準」が導入されることになりました。これは、単なる財務指標から事業の実態へと判断基準を移す、根本的な方針転換を意味します。
これにより、現在は下請法の対象外であっても、従業員数が多い企業は新たに親事業者とみなされる可能性があります。特にサービス業やIT業界の企業は、自社の資本金だけでなく従業員数にも注意を払い、将来の法適用に備えておくことが不可欠です。
支払遅延を招く起算日の誤解

60日ルールの違反で最も多いのが、60日を数え始める「起算日」の誤解です。法律は、起算日を「給付を受領した日」、つまり物品やサービスを現実に受け取った日であると明確に定めています。
多くの企業が陥りがちな間違いは、社内の業務フローを基準にしてしまうことです。以下のような起算日の設定はすべて誤りであり、支払遅延の原因となります。
- 検収日を起算日にすること:社内の検査に合格した日を起算日にすることはできません。検査に時間がかかったとしても、受領日から60日以内に支払う義務は変わりません。
- 請求書発行日を起算日にすること:下請事業者から請求書が届いた日を起算日にすることも誤りです。
- 締め日を基準にすること:「月末締め翌月末払い」のような社内ルールも注意が必要です。例えば、5月1日に納品されたものを「5月末締め6月末払い」とするのは問題ありません。しかし、「5月25日納品、20日締めのため7月20日払い」といったケースでは、納品日から60日を超えてしまい違反となります。
具体的な計算例
例えば、納品日が4月10日だった場合、起算日は同じく4月10日となります。この日が1日目となり、支払期日は60日目にあたる6月8日です。この場合、6月8日までに支払いを完了させる必要があります。
やり直し(再納品)の場合
下請事業者の責任(瑕疵や仕様違いなど)で納品物に不備があり、やり直しをさせた場合、60日のカウントはリセットされます。この場合、やり直し品を再納入した日が新たな起算日となります。
ただし、親事業者の都合による仕様変更など、下請事業者に責任がないにもかかわらず無償でやり直しをさせることは、下請法が禁じる「不当なやり直し」という別の違反行為にあたる可能性があるため、注意が必要です。
こうした違反が発生する根本的な原因は、法律が定める客観的な基準(受領日)と、多くの企業が慣習的に用いている社内プロセス(検収、請求書受理、締め日)との間のズレにあります。
コンプライアンスを徹底するためには、法務部門だけの問題と捉えず、経理や購買部門を巻き込み、受領日を正確に記録し、それに基づいて支払いサイクルを管理するよう、業務フローそのものを見直すことが不可欠です。
支払いが遅延した場合のペナルティ
万が一、60日ルールに違反して支払いが遅延した場合、親事業者には厳しいペナルティが科せられます。その内容は、金銭的なものから社会的な信用の失墜まで、多岐にわたります。
遅延利息の支払い義務
支払期日までに代金を支払わなかった場合、親事業者は下請事業者に対し、年率14.6%の遅延利息を支払う義務を負います。この利率は法律で一律に定められており、当事者間の合意で免除したり減額したりすることはできません。
利息の計算は、給付を受領した日から数えて61日目から、実際に支払いが行われた日までの日数に応じて行われます。
行政指導と勧告
支払遅延などの違反行為が発覚した場合、公正取引委員会や中小企業庁による調査が行われます。調査の結果、違反の事実が認められると、まずは改善を求める「指導」が行われます。
それでも改善されない、あるいは違反が悪質であると判断された場合には、より重い行政処分である「勧告」が出されます。
最大のリスクは「企業名の公表」
金銭的なペナルティ以上に企業が恐れるべきは、勧告を受けた場合に企業名と違反内容が公表されることです。これは、企業の社会的信用を根底から揺るがす深刻な事態です。
例えば、100万円の支払いを30日遅延した場合の遅延利息は約1万2,000円であり、大企業にとって金額自体は軽微かもしれません。しかし、「下請けいじめをする企業」として名前が公表されれば、そのダメージは計り知れません。
株価の下落、ブランドイメージの毀損、優秀な人材の採用難、優良な取引先からの敬遠など、事業の根幹に関わる様々な悪影響が考えられます。したがって、下請法遵守は、単なる法務リスク管理ではなく、企業の評判やブランド価値を守るための重要な経営課題と位置づけるべきです。
親事業者の11の禁止行為
下請法が規制しているのは、支払遅延だけではありません。親事業者には4つの義務と11の禁止行為が定められており、60日ルールはその一部に過ぎません。支払期日を遵守していても、他の禁止行為に抵触していれば、当然ながら下請法違反となります。
特に注意すべき代表的な禁止行為は以下の通りです。
- 受領拒否
下請事業者に責任がないにもかかわらず、発注した物品の受け取りを拒否すること。 - 下請代金の減額
発注時に決めた代金を、後から一方的に減額すること。「協賛金」や「システム利用料」といった名目で差し引く行為も含まれます。 - 返品
受け取った物品を、下請事業者に責任がないのに返品すること。 - 買いたたき
通常支払われる対価に比べて、著しく低い価格を不当に定めること。 - 購入・利用強制
正当な理由なく、親事業者の製品やサービスを下請事業者に購入・利用させること。 - 不当なやり直し
下請事業者に責任がないにもかかわらず、無償で作業のやり直しをさせること。
これらの禁止行為の存在は、下請法が単に「いつ支払うか」というタイミングの問題だけでなく、「約束した価値を全額、誠実に支払うか」という取引の本質を問う法律であることを示しています。
例えば、支払いを期日通りに行っても、その前に不当な減額を行えば、下請事業者が受け取るべき価値は損なわれてしまいます。したがって、真のコンプライアンスとは、60日ルールという一点だけを見るのではなく、取引全体の公正性を確保する、より包括的な視点を持つことを意味します。
【下請事業者向け】支払いが遅延したときの対処法

もしあなたが下請事業者で、親事業者からの支払いが遅延している、あるいは不当な要求を受けている場合、泣き寝入りする必要は全くありません。法律は、弱い立場に置かれがちな下請事業者を守るための具体的な手段を用意しています。
事実確認と直接の連絡
支払いの遅れが、単なる経理上のミスや連絡不行き届きである可能性もあります。まずは親事業者の担当部署に連絡し、支払状況を確認しましょう。この段階で解決することも少なくありません。
行政機関への申告
直接の交渉で解決しない場合や、報復を恐れて直接言いにくい場合は、公正取引委員会または中小企業庁に申告することができます。これらの機関は、下請事業者が不利益を被らないよう、匿名での情報提供も受け付けています。
特に「違反行為情報提供フォーム」を利用すれば、自社の情報を明かすことなく、違反の疑いがある親事業者の情報を通報できるため、安心して利用できます。
「下請かけこみ寺」とADRの活用
より具体的な解決を目指すなら、全国に設置されている「下請かけこみ寺」への相談が有効です。ここでは専門の相談員が無料でアドバイスをしてくれるほか、最大の特徴としてADR(裁判外紛争解決手続)を無料で利用できます。
ADRとは、弁護士などの専門家が中立な第三者として間に入り、話し合いによる解決(調停)を目指す手続きです。裁判と比べて、以下のようなメリットがあります。
- 非公開で進められるため、取引関係の悪化を避けやすい。
- 迅速に解決が図れる(通常3ヶ月程度)。
- 費用が原則無料。
この制度は、下請事業者が取引関係の断絶を恐れるあまり声を上げられない、というジレンマを解消するために設計されています。匿名での申告や中立的な調停といった選択肢があることを知っておくことは、すべての下請事業者にとって重要です。
2024年からの新常識:約束手形・でんさいのサイトも60日以内に
長年、日本の商慣行として根付いてきた約束手形による支払いについても、大きな変革が訪れています。これは下請事業者の資金繰り改善を目的とした、政府主導の重要な政策転換です。
従来、繊維業では90日、その他の業種では120日という長い支払期間(サイト)の手形が容認されてきました。しかし、これは下請事業者に事実上の金融コストを負担させるものであり、長年の課題とされていました。
この状況を抜本的に見直すため、公正取引委員会と中小企業庁は運用を大きく変更し、2024年11月1日以降、サイトが60日を超える約束手形、電子記録債権(でんさい)、一括決済方式は、下請法が禁じる「割引困難な手形」に該当するおそれがあるものとして、行政指導の対象とすることを明確にしました。
さらに、政府と金融業界は、2026年度末(2027年3月)までに、紙の約束手形・小切手そのものを全廃する方針を打ち出しています。
この一連の動きは、単なるルール変更ではありません。これは、親事業者が下請事業者を安価な資金調達手段として利用してきた旧来のB2B金融文化を終わらせ、より迅速で透明性の高いデジタル決済へと移行させる、日本全体の商取引の近代化を意味します。
親事業者は、もはや長期手形に頼った運転資金の管理はできません。キャッシュフロー計画の根本的な見直しが急務となります。一方、下請事業者にとっては、キャッシュフローが劇的に改善する、ここ数十年で最も重要な追い風となるでしょう。
建設業におけるさらに厳しい「50日ルール」
下請法の60日ルールは広範な業種に適用されますが、特定の業界では、さらに厳しい独自のルールが存在する場合があります。その代表例が建設業です。
建設工事の請負契約には、下請法ではなく建設業法が優先的に適用される場面が多く、支払いに関しても独自の規定が設けられています。特に、特定建設業者には、下請法より厳しい「50日ルール」が適用されます。特定建設業者とは、発注者から直接請け負った一件の工事につき、下請代金の総額が一定額以上となる場合に許可が必要な業者を指します。
具体的には、特定建設業者は、下請事業者から工事完成の通知を受け、引き渡しの申し出があった日から50日以内に下請代金を支払わなければなりません。この起算日は下請法の「受領日」とは異なるため、注意が必要です。
この事例が示すように、自社のコンプライアンス体制を考える際には、下請法のような一般的な法律だけでなく、自社が属する業界に特有の法律やガイドラインにも必ず目を通す必要があります。一般的な知識だけで判断すると、思わぬところで法令違反を犯してしまう危険性があります。
まとめ
下請法、特に60日ルールは、複雑に見えるかもしれませんが、その本質は公正な取引を通じて企業間の健全な関係を築くことにあります。法令遵守は、単なる義務やリスク回避策ではなく、企業の信頼性を高め、持続的な成長を支えるための基盤です。
明日から実践すべき重要なポイントを再確認しましょう。
- 取引の対象確認
まずは自社の取引が下請法の適用対象となるかを確認してください。これがすべての第一歩です。 - 起算日の徹底
支払期日のカウントは、検収日や請求書発行日ではなく、必ず「受領日」から開始します。この法律上の原則と社内業務フローにズレがないか、今一度点検しましょう。 - ペナルティの認識
違反した場合のペナルティは、年率14.6%の遅延利息だけではありません。企業名が公表されることによる社会的な信用の失墜が、最も大きな経営リスクであることを認識してください。 - 未来への備え
商慣行は常に変化しています。2024年11月から始まった手形サイトの60日以内ルールや、将来の従業員数基準の導入など、新しい動きに常にアンテナを張り、変化に先んじて対応することが重要です。
下請法を正しく理解し、誠実に遵守する姿勢は、取引先からの信頼を勝ち取り、長期的に安定したパートナーシップを築くための最良の戦略です。



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