
ビジネスの現場では、日々さまざまな取引が行われます。その中で、「この費用はどちらが負担するのか」という問題は、利益に直結する重要なテーマです。多くの場合、契約書や商慣習によって費用負担は明確にされていますが、もし取り決めがなかったらどうなるのでしょうか。
実は、その答えは民法に定められています。しかし、一見単純に見える費用のルールには、取引がこじれた際に重大な結果を招く「落とし穴」が隠されています。
単なる費用負担のルールだけでなく、取引相手の都合で納品ができない「受領遅滞」という状態が、自社のリスクを高める可能性があります。
特に2020年の民法改正で大きく変わった「危険負担」の考え方と、それが受領遅滞とどう連動するのかを理解することで、予期せぬ損失を回避する具体的な方法が見えてきます。
法律は難しいと感じるかもしれません。しかし、その根本にあるのは、ビジネスにおける公平なリスク分配の考え方です。
この記事では、法律の条文をビジネスの言葉に翻訳し、具体的な事例を交えながら、明日から使える実践的な知識として解説します。
目次
取引費用の基本ルール:民法485条「弁済の費用」を読み解く
すべての取引費用の議論は、民法485条から始まります。この条文は、契約上の義務を果たす(弁済する)際に発生する費用について、基本的なルールを定めています。
原則は「義務を果たす側」の負担
民法485条の本文には、「弁済の費用について別段の意思表示がないときは、その費用は、債務者の負担とする。」と規定されています。ここでいう「債務者」とは、お金を借りている人という意味だけではありません。契約において「何かをする義務を負っている側」を指します。
たとえば、売買契約においては、商品を納品する売主も、代金を支払う買主も、それぞれが特定の義務を負う債務者です。この条文が示す原則は非常にシンプルです。契約書などで特に取り決めがない限り、義務を果たすために必要な費用は、その義務を負っている側が負担するということです。
具体的な例を見てみましょう。買主が代金を支払う場合、買主は「代金を支払う義務」を負う債務者です。そのため、銀行の振込手数料は、原則として買主が負担します。一方、売主が商品を納品する場合、売主は「商品を届ける義務」を負う債務者です。そのため、商品の梱包費用や、買主の元へ届けるための最初の送料は、原則として売主が負担することになります。
このルールは、取引の公平性を保つための出発点です。法律は、当事者間で費用の取り決めがない場合に備えて、論理的で公平なデフォルトのルールを用意しています。義務を負う側がその遂行コストを負担するのは自然な考え方であり、事業者はこのコストをあらかじめ価格設定に織り込むことが期待されます。
例外は「受け取る側」が原因で費用が増えた場合
民法485条には、この原則に対する重要な例外を定めた「ただし書き」があります。「ただし、債権者が住所の移転その他の行為によって弁済の費用を増加させたときは、その増加額は、債権者の負担とする。」と定められています。
「債権者」とは、「何かをしてもらう権利がある側」です。売買契約でいえば、商品の引渡しを求める買主や、代金の支払いを求める売主が債権者にあたります。この例外ルールは、権利者(受け取る側)の行動が原因で、義務を果たすための費用が余分にかかってしまった場合、その増えた分の費用は権利者が負担しなければならない、というものです。
これも具体的な例で考えてみましょう。売主が商品を発送した後、買主が住所の記載ミスに気づき、再配達が必要になったとします。この場合、最初の送料は原則どおり売主負担ですが、再配達にかかる追加の送料は、原因を作った買主の負担となります。
また、売主が商品をトラックに積み込み、通常のルートで配送を手配した後に、買主が「急ぎなので、費用が高くなるチャーター便に変えてほしい」と要求した場合、その差額(増加額)は買主が負担することになります。
この例外規定には、法律の根底にある「公平」の精神が表れています。当初の契約内容どおりに義務を果たそうとしている側に、相手の都合で発生した追加コストまで負わせるのは不公平です。そのため、取引の正常な流れを乱した側が、その結果生じた追加負担を負うべきだという考え方が採用されています。
話がこじれる典型例:「受領遅滞」という落とし穴
民法485条が定める費用負担は、あくまで取引がスムーズに進んでいる状況を前提としています。しかし、ビジネスの現場では、売主が商品を届けようとしているのに、買主が正当な理由なく受け取りを拒否するといった事態が発生することがあります。このような状況を、法律用語で「受領遅滞(じゅりょうちたい)」と呼びます。
受領遅滞とは?あなたの取引相手が原因になる場合
受領遅滞は、民法413条に定められており、「債権者が債務の履行を受けることを拒み、又は受けることができない」場合に成立します。簡単に言えば、義務を果たす側(債務者)が契約どおりの準備を整えて提供しているにもかかわらず、権利を持つ側(債権者)が協力しないために、取引を完了できない状態のことです。
受領遅滞には、大きく分けて2つのパターンがあります。一つは「受領拒絶」です。これは、債権者が意図的に受け取りを拒むケースを指します。例えば、納品日にトラックで商品を届けたが、買主の担当者が「今は倉庫が満杯だから」と一方的に受け取りを拒否した場合などが該当します。
もう一つは「受領不能」です。これは、債権者側の事情で、物理的または事実上、受け取ることができないケースを指します。例えば、特注の機械を納品・設置する契約で、買主が設置場所の基礎工事を終えておらず、売主が設置作業を行えない場合や、買主が指定した納品先の店舗が、約束の日時に閉まっていた場合などが考えられます。
契約は、一方の当事者だけでは完結しません。売主が商品を届ける義務を負うのと同様に、買主にはそれを受け取るという、契約を完成させるための協力義務が暗黙のうちに課されています。受領遅滞は、この協力義務に違反する行為であり、法律は義務を果たそうとした誠実な債務者を保護するために、いくつかの重要な法的効果を発生させます。
受領遅滞がもたらす3つの重大な結果
2020年の民法改正により、受領遅滞の効果が条文上、より明確になりました。債権者が受領遅滞に陥ると、債務者には主に3つの強力な保護が与えられます。
1. 費用の転嫁(増加した費用の債権者負担)
受領遅滞によって履行費用が増加した場合、その増加額は債権者の負担となります(民法413条2項)。これは、民法485条のただし書きで見たルールを、より広く適用するものです。
例えば、買主が商品の受け取りを拒否したため、売主が商品を倉庫に保管せざるを得なくなった場合、その倉庫の保管料や保険料は買主の負担となります。後日、改めて商品を配送する場合の再配達費用も、当然、買主が負担します。
2. 注意義務の軽減(目的物の保存義務の軽減)
特定物(絵画や中古車など、替えのきかない物)の引渡しの場合、債務者は通常、「善良な管理者の注意(善管注意義務)」をもってその物を保存する義務を負います。これは、職業や社会的地位に照らして一般的に期待されるレベルの高い注意義務です。
しかし、受領遅滞が発生すると、この義務のレベルが「自己の財産に対するのと同一の注意」にまで軽減されます(民法413条1項)。これは、文字通り「自分の物を管理するのと同じ程度の注意を払えばよい」という、より低いレベルの注意義務です。
この結果、受領遅滞の期間中に、売主の不注意で商品に傷がついてしまったとしても、その不注意が重大でなければ、売主は損害賠償責任を負わなくて済む可能性が高まります。
3. リスクの移転(危険負担の移転)
これが最も重大な効果です。受領遅滞中に、当事者双方の責任ではない理由(たとえば天災など)によって商品が滅失・損傷した場合、その損失のリスクは債権者(買主)が負うことになります(民法413条の2第2項)。
これは、次に詳しく解説する「危険負担」の原則が、受領遅滞によって完全に逆転することを意味します。このルールの存在を知らないと、企業は壊滅的な損失を被る可能性があります。
【2020年民法改正の核心】危険負担と受領遅滞の関係
「危険負担」とは、契約が成立してから履行が完了するまでの間に、地震や火事、水害といったどちらの当事者のせいでもない理由で商品が壊れたりした場合、その損失(危険)をどちらが負担するのか、という問題です。このルールは2020年の民法改正で大きく変更され、ビジネス実務に大きな影響を与えています。
原則は「債務者主義」:商品引渡しまでは売主のリスク
改正前の民法では、特定物(中古品や不動産など)の売買において「債権者主義」という考え方が採用されていました。これは、商品が買主の手元に届く前に天災で滅失した場合でも、買主は代金を支払わなければならないという、現代の取引感覚からすると不公平なルールでした。
この問題点を解消するため、2020年の民法改正では債権者主義が完全に廃止され、原則として「債務者主義」に統一されました。債務者主義とは、商品の引渡しが完了するまでは、その商品が偶然失われるリスクは債務者(売主)が負うという考え方です。
例えば、買主がある特定の中古機械を購入する契約を結んだとします。しかし、その機械が売主の工場から発送される前に、隣家の火事が燃え移って焼失してしまいました。この場合、売主の「機械を引き渡す義務」は消滅しますが、同時に、買主は代金の支払いを拒絶できます。
この改正により、「まだ手に入れてもいない商品の代金を支払わされる」という理不尽な事態がなくなり、商品を現実に管理している売主がリスクを負うという、公平で分かりやすいルールになりました。
受領遅滞でリスクが逆転する!
債務者主義という買主を保護する原則は、買主が契約上の協力義務を果たしていることが前提です。もし買主が受領遅滞に陥った場合、このリスクの所在は180度逆転します。
民法413条の2第2項および民法567条第2項は、売主が契約どおりに履行の提供をしたにもかかわらず、買主が受領を拒んだり、受領できなかったりする状況で、その後に双方の責に帰すことができない事由で目的物が滅失・損傷した場合、その履行不能は「債権者(買主)の責めに帰すべき事由によるものとみなす」と定めています。
これは法律上の「みなし規定」であり、非常に強力な効果を持ちます。買主が火事を起こしたわけではなくても、法律上は「あたかも買主のせいで商品がなくなったかのように」扱われるのです。その結果、買主は契約を解除することができなくなり、最も重要な点として、代金の支払いを拒むことができなくなります(民法536条2項)。
この状況を、具体的なシナリオで確認しましょう。ある企業が、工場で使う特注の精密機械を1,000万円で発注しました。メーカー(売主)は納期どおりに機械を完成させ、納品日を通知します。しかし、発注者(買主)は「工場の準備が遅れているので、2週間ほどそちらで保管しておいてほしい」と依頼しました。
メーカーはこれを承諾し、機械を自社の倉庫で保管していました。ところがその1週間後、落雷による火災で倉庫が全焼し、機械も完全に失われてしまいました。この場合、買主は受領遅滞に陥っています。
その後に発生した不可抗力による機械の滅失リスクは、買主に移転しています。したがって、買主は、一度も目にすることのなかった機械の代金1,000万円を、全額支払わなければならないのです。
なぜこのような厳しい結論になるのでしょうか。その背景には、「もし買主が契約どおりに機械を受け取っていれば、その機械はメーカーの倉庫にはなく、火災に遭うこともなかったはずだ」という法的な因果関係の考え方があります。
取引の停滞という危険な状況を作り出した当事者が、その状況下で発生した偶発的な事故のリスクを負うべきだ、というのが法律の判断なのです。
一目でわかる!受領遅滞による責任の変化
ここまで見てきた複雑なルールの変化を、表にまとめると以下のようになります。この「通常時」と「受領遅滞時」の違いを理解することが、リスク管理の第一歩です。
状況 | 費用負担 | 保存義務 | 滅失・損傷のリスク |
通常時 | 債務者(売主)負担 (原則) | 善管注意義務 (高い注意義務) | 債務者(売主)負担 (引渡しまで) |
受領遅滞時 | 増加費用は債権者(買主)負担 | 自己の財産と同一の注意 (軽減された注意義務) | 債権者(買主)負担 |
法律知識を武器にする:契約書でトラブルを未然に防ぐ方法
これまで解説してきた民法のルールは、あくまで当事者間に特別な合意がない場合の「初期設定」です。これらの規定の多くは「任意規定」と呼ばれ、契約書で異なる内容を定めることが法的に認められています。この点を理解することが、法律知識を受動的なものから、自社の利益を守る能動的な武器へと変える鍵となります。
「任意規定」を理解し、自社に有利な契約を結ぶ
民法は、あらゆる取引に適用される汎用的なルールを提供しますが、個々のビジネスの特殊な事情まですべてをカバーすることはできません。そこで法律は、当事者が自分たちの取引の実態に合わせて、より適切なルールを自由に設定する余地を認めているのです。
これを「契約自由の原則」といい、この原則があるからこそ、契約書の作成がビジネスにおいて極めて重要になります。契約書で何も定めなければ、民法のデフォルトルールが適用されます。しかし、そのルールが自社にとって必ずしも有利とは限りません。
したがって、賢明な事業者は、民法のルールを基準点として理解した上で、交渉を通じて自社のリスクを軽減し、責任の所在を明確にするような契約条項を盛り込もうとします。法律を知ることは、この交渉を有利に進めるための土台となるのです。
契約書に盛り込むべき3つの重要条項
受領遅滞や危険負担に関するトラブルを未然に防ぐために、特に売主の立場からは、契約書に以下の3つの条項を明確に定めておくことが強く推奨されます。
1. 費用負担の明確化
民法485条は基本的な費用について定めているに過ぎません。実際の取引では、輸送費、保険料、関税、設置費用など、さまざまなコストが発生します。これらについて「誰が」「どこまで」負担するのかを、曖昧さなく記載しておくべきです。
記載例:「本製品の買主指定場所への輸送費および輸送保険料は売主の負担とする。ただし、開梱、設置および試運転に要する費用は買主の負担とする。」
2. 検収期間と方法の指定
買主による受け取りの遅延や、不明確な理由での受領拒否を防ぐために、検収のルールを具体的に定めます。これにより、「いつ受領遅滞が始まるのか」が客観的に明確になります。
記載例:「買主は、本製品の納品後5営業日以内に検収を行うものとする。当該期間内に、買主から売主に対して書面による不合格通知がなされない場合、本製品は検収に合格したものとみなし、引渡しが完了したものとする。」
3. 危険の移転時期の明記
民法改正で危険の移転時期は「引渡し時」と明確化されましたが、「引渡し」が具体的にどの時点を指すのかは、解釈の余地が残ります。トラブルを避けるため、契約書でその時点をピンポイントで特定することが重要です。
売主有利の例:「本製品の危険負担は、売主の工場から本製品が搬出された時点で、買主に移転する。」
買主有利の例:「本製品の危険負担は、前条に定める検収に合格した時点で、買主に移転する。」
一般的な例:「本製品の危険負担は、買主が指定した納品場所に到着し、荷下ろしが完了した時点で買主に移転する。」
これらの条項を契約書に盛り込むことで、法律のデフォルトルールに頼るのではなく、自社の意思で能動的にリスクをコントロールすることが可能になります。
まとめ
今回は、民法485条という費用負担の基本ルールを入口に、ビジネスに潜む「受領遅滞」と「危険負担」という重大なリスクについて解説しました。最後に、実務で活かすための要点を再確認します。
まず、費用の基本(民法485条)として、契約に別段の定めがなければ、義務を果たす側がその費用を負担します。売主なら発送費用、買主なら振込手数料が典型例です。
次に、遅延の代償(受領遅滞 – 民法413条)です。買主が正当な理由なく商品の受け取りを拒むと「受領遅滞」となり、売主を保護するルールが発動します。その結果、保管費用の増加分は買主の負担となり、万が一の際の売主の保管責任は軽くなります。
そして、最大のリスクが危険負担の逆転(民法413条の2)です。2020年の民法改正により、商品のリスクは「引渡し」までは売主負担が原則となりました。しかし、買主が受領遅滞に陥ると、このリスクは買主に逆転します。その結果、受け取っていない商品が天災で失われても、代金を全額支払う義務が生じるという、極めて厳しい結果を招きます。
これらに対する最強の防御は契約書です。民法のルールは、当事者の合意によって変更できる「任意規定」です。トラブルを未然に防ぐ最善策は、費用負担、検収期間、そして最も重要な「危険の移転時期」を契約書で明確に定めておくことです。
契約は、ビジネスにおける約束事の集大成です。法律の知識を身につけることは、その約束を自社にとってより安全で、より有利なものにするための強力な武器となります。ぜひ、本記事の知識を自社の契約書の見直しや、今後の取引交渉にお役立てください。
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